大阪地方裁判所 平成9年(ワ)4638号 判決
原告 A
原告 B
原告 C
右二名法定代理人親権者父 A
右原告ら訴訟代理人弁護士 高田吉典
被告 大阪市
右代表者市長 磯村隆文
右訴訟代理人弁護士 間石成人
主文
一 被告は、原告Aに対し、一五〇万円及びこれに対する平成九年五月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告は、原告B及び原告Cに対し、各七五万円及びこれに対する平成九年五月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 原告らのその余の請求を棄却する。
四 訴訟費用はこれを一〇分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。
五 この判決は、第一、二項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告Aに対し一五七一万円、原告B及び原告Cに対し各七八五万五〇〇〇円及びこれらに対する平成九年五月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、被告の経営する病院において、直腸癌の除去手術を受けて入院治療中の患者に対し、病院給食を通じてサルモネラ菌に感染させた上、その後の措置も不適切であったため死亡させたとして、その患者の遺族である原告らが、被告に対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為(使用者責任)に基づいて、損害賠償金及びこれに対する弁済期後である平成九年五月二七日(訴状送達日の翌日)から支払済みまでの遅延損害金を請求している事案である。
一 争いのない事実等
1(一) 原告Aは、亡D(以下、「D」という。)の夫である。また、原告B及び原告Cは、いずれも原告AとDとの間の子である。
(二) 被告は、大阪市立住吉市民病院(以下、「被告病院」という。)を経営している者である。浅井毅(以下、「浅井」という。)は、被告病院に勤務する医師であり、Dの主治医であった者である。
2 Dは、平成八年四月二四日、直腸癌の除去手術をするため、被告病院と診療契約を締結して入院した。
3 浅井は、同年五月一四日、Dに対し、直腸癌下部前方切除術を施行した(なお、当時のDの癌の進行状況については、争いがある。)。
4 同年七月一二日ころ以降、被告病院の入院患者にサルモネラ菌により食中毒に罹患する者が出始めた。Dにおいても、下痢等の消化器症状が発生し、同年七月一六日の検査の結果、サルモネラ・モンテビデオ型のサルモネラ菌が顕出された。
5 被告病院の給食場は、大阪市長から、同月一七日から同月一九日までの三日間、業務停止を命じられた。
6 Dは、同月二七日に死亡し、同人の夫である原告Aが二分の一、原告B及び原告Cが各四分の一づつDの権利義務を相続により承継取得した。
二 争点
1 被告病院の過失<1>(入院患者へのサルモネラ菌感染)
(原告らの主張)
(一) 消化器癌の手術を受けた者は、細菌等に対する抵抗力及び免疫力はきわめて乏しく、健康な成人ですら中毒症状を呈して死亡するほどの毒性の強いサルモネラ菌に対しては、致命的な感染症に至ることが多い。
(二) 被告病院は、院内の清潔を保持し、特に院内給食に関してはより強い清潔保持によりサルモネラ菌等の発生を防止し、また患者等を十分に観察する等して発生の早期発見に尽くすべき強い衛生管理義務があった。特に、当時はO一五七大腸菌による感染症が問題となっていた以上、調理場の給食への衛生管理には強い義務が存した。
(三) しかるに、被告病院は右各義務を怠り、サルモネラ菌感染症を発生させ、Dを含む術後の患者に拡大させた。
(被告の主張)
(一) 原告の主張(一)は争う。消化器癌手術後の患者であっても、癌の進行度や個人差により抵抗力や免疫力は異なる。また、被告病院で検出されたサルモネラ・モンテビデオ型のサルモネラ菌は強い毒性はなく、感染により死亡することは稀である。
(二) 同(二)は認める。
(三) 同(三)は争う。被告病院としては、食中毒予防のため、できる限りの措置を講じてきたから、被告に衛生管理義務違反はない。
2 被告病院の過失<2>(サルモネラ菌感染発見の遅れ)
(原告らの主張)
(一) 被告病院は、平成八年七月一二日には三例、同月一四日には五例の中毒症患者を発見して検査指示をし、同日にはサルモネラ中毒症を認識していた。また、Dは、同月一四日ころから、激しい下痢に見舞われていた。
(二) 被告病院は、全病棟入院患者及び医療担当者に対し、サルモネラ中毒症発症の事実を開示し、入院病歴の如何を問わず、嘔吐、下痢、発熱等の症状を呈する入院患者に対して直ちに検査を実施し、治療に着手するよう指示すべき注意義務があった。
(三) しかるに、被告病院は右義務を怠り、同病院におけるサルモネラ菌集団感染の疑いを抱かずに、同月一六日に至るまで漫然放置した。
(被告の主張)
(一) 原告らの主張(一)は認める。
(二) 同(二)は争う。同月一四日当時、下痢、発熱症状がみられたのは本館四階病棟(内科)、同館三階病棟(産婦人科)及び北館病棟(整形外科)であり、Dは西館三階に入院していた。また、サルモネラ菌が原因の食中毒であることが判明した同月一六日には適切な措置をとった。
(三) 同(三)は争う。Dに対してサルモネラ菌感染症を疑った同月一六日以降は、抗生物質の投与等の適切な治療・検査を行い、同月一七日には治癒に至っている。
3 被告医師(浅井)の過失<1>(サルモネラ菌感染診断の遅れ)
(原告らの主張)
(一) Dは、同月一四日ころからサルモネラ菌に感染し、食欲が著しく低下し、著しい下痢症状を呈していた。
(二) 浅井は、Dがサルモネラ菌に感染しているとの疑いを持ち、胃の洗浄を行い下剤を与え、安静にさせ、嘔吐、下痢に対してはブドウ糖液、リンゲル液の補液を行い、対症療法として抗生物質の投与等の治療行為に直ちに着手すべきだった。
(三) しかるに、浅井はこれを怠り、何らの措置をとらなかったばかりか、同月一五日に中心静脈栄養カテーテル(以下、「IVH」という。)を抜去してDの体力を消耗させた。
(被告の主張)
(一) 原告らの主張(一)は認める。
(二) 同(二)は争う。細菌性食中毒症に対して、点滴治療及び抗生物質投与が行われることはあるが、サルモネラ菌感染による食中毒症の治療では、通常胃洗浄や下剤の投与は行わない。
(三) 同(三)は争う。Dに対しては、サルモネラ菌感染症を疑った同月一六日以降、抗生物質の投与等の適切な治療検査を行い、まもなく治癒に至っている。
4 被告医師(浅井)の過失<2>(IVH長期抜去)
(原告らの主張)
(一) 食欲の低下したDにとって、IVHは最も重要な栄養及び水分の補給方法てあったから、浅井としては、適切にIVHを実施してDの体力を維持させるべき注意義務があった。
(二) しかるに、浅井は右義務を怠り、同月一五日から同月二三日までの間、IVHの再開をせずに中断した。
(被告の主張)
(一) 原告らの主張(一)は認める。
(二) 同(二)は争う。Dは食事も少しは摂取できていた上、同月一九日にした点滴を途中から拒否し、同月二一日にも点滴を拒否したのであるから、水分等補給について被告病院の処置が非難されるべきではない。また、IVH不実施の全身状態への影響もほとんどなかった。
5 因果関係
(原告らの主張)
(一) Dは、本件手術当時、ステージIII の癌であり、本件手術の成功により、少なくとも術後三年間は通常の日常生活が可能であった。
(二) 被告病院は、前記のとおり抵抗力の弱まったDにサルモネラ菌を感染させ、漫然経過観察に終始した上IVHを抜去し、その後も中断したままにしたため、急速に且つ著しく体力を衰えさせてDを死亡させるに至った。
(被告の主張)
(一) 原告らの主張(一)は否認する。Dの癌は、高度の進行癌(組織学的病期で第IV期)であった。
(二) 同(二)は否認する。Dは、癌の再発により、重要臓器に癌が進展し、急速に状態が悪化して死亡したものである。
6 Dの損害
(原告らの主張)
(一) 死亡慰謝料 二五〇〇万円
(二) 逸失利益 六四二万円
但し、賃金センサス第一巻一表の産業計企業規模計女子労働者の平均給与額年三五一万六四〇〇円、就労可能年数三年に対応するホフマン係数二・六〇八七七、生活費控除率三〇パーセントを前提に算出した金額である。
(被告の主張)
争う。
第三争点に対する判断
一 前提となる事実関係(甲一のほか、括弧内に記載した証拠により認定したものである。)
1 Dは、平成八年四月一〇日に、被告病院産婦人科からの院内紹介により外科を受診した。浅井の診察により直腸に腫瘍性病変を認めたため、同日病理検査を実施したところ、中分化腺癌であると診断されたので(乙九)、Dは癌を摘出する手術を受けるため、被告病院に入院した。
2 入院後に施行したCT検査、超音波検査、注腸検査等では、直腸以外への癌の遠隔転移は認められなかったが、腫瘍マーカーであるCEA値は、一ミリリットルあたり一六ナノグラム(正常値は、一ミリリットルあたり二・五ナノグラム以下)であった。
3 五月一四日の本件手術時におけるカルテの記載には、癌は固有筋層を越えているが、さらに深くは浸潤していない(「A1」)、腹膜播種性転移、肝転移及び遠隔他臓器転移はいずれも認めない(「PO・HO・M(一)」)、第二群リンパ節に転移が認められ(「N2」)第二群のリンパ節の郭清を伴う大腸切除術(低位前方切除術)がなされた(「D2」)との記載があり、癌の進行度はStageIIIb とされている。右摘出した癌腫を病理組織検査した結果、主病巣は低分化型の腺癌であり、高度の脈管侵襲を伴って漿膜下に浸潤しており、総腸骨周囲のリンパ節への転移があり、総腸骨動脈、内腸骨動脈周囲にもリンパ節転移を多数認められ、特に大動脈周囲リンパ節(二一六番)にまで転移がみられるものであって(乙二二)、組織学的進行度ではステージIVであった(乙一、乙一五、乙二五の1、証人浅井)。
4 術後、Dは縫合不全を窺わせる経過をたどったものの、順調に快復していた。もっとも、同人の排便状況は、低位前方切除術の術後経過によくみられる、数日間続く便秘と頻回の排便を繰り返すという状況を繰り返していた(乙二三、乙二六の1、2、証人浅井)。
5 DのCEA値は、術後の六月三日には一ミリグラムあたり一二ナノグラムと低下したが、七月三日には一ミリグラムあたり三五ナノグラムに上昇していた。
6 同月二日のカルテには、「このままの状態であれば来週IVH抜去予定」との記載がなされている(証人浅井)。
7 同月一〇日に施行された超音波検査の結果、右側水腎症、脾頭側のリンパ節腫大がみられることが判明した。また、同月一五日の診察により、右下肢に浮腫が出現したことが認められたため、浅井は同日癌再発と診断し、翌一六日に原告Aに告知し、同人を通じてDにも伝えられた(乙二三、証人浅井)。
8 同月一五日、浅井は、自己の判断でDのIVHを抜去した。
9 ところて、同月一二日ころから、被告病院の本館四階病棟(内科)、同館三階病棟(産婦人科)及び北館病棟(整形外科)において、下痢、発熱症状を呈する患者が多数現れた。被告病院は、翌一三日ころから検査を指示し、同月一五日には便からサルモネラ菌が同定された患者が現れた(乙一〇)。もっとも、Dが入院していた西館病棟で明らかな食中毒症状を呈した患者が出たのは、同人も含め、同月一六日になってからであった。
10 他方、Dは、同月一一日ころから頻回の排便が続き、同月一六日には二〇回以上の下痢をしたことから、浅井はDのサルモネラ菌感染を疑い、便細菌検査を行った上(後に、サルモネラ菌が検出された。)、右検査の結果を待たずに抗生物質であるクラビットを投与した(証人浅井)。
11 翌一七日にはDの排便は軟便一回にとどまり、下痢の症状は軽減したため、Dの希望により入浴した。
12 同月一八日から、再び下痢がみられたため、同月一九日に再度便細菌検査を実施し(同月二二日に判明した結果は、陰性であった。)、同日点滴を再開した。浅井は「あと一週間くらいすればサルモネラの症状が取れると思われるので、その時点で退院可能か、転院するか考えたい。」旨説明した。
13 同月二〇日には、九回以上の下痢がみられた。同日点滴を施行したが、本人の希望もあって一〇〇ミリリットルで中止した。
14 同月二一日には四回の軟便、同月二二日には浣腸後一〇回の下痢、同月二三日には浣腸後一回の下痢が見られた。同日、点滴を再開した。
15 同月二四日、一五回以上の下痢があり、排ガスもあった。腹部超音波検査を施行したところ、同月一〇日では認められなかった腹水を認め、水腎症は両側に及んでいた。夕方には胆汁様の嘔吐が二〇〇ミリリットル位あった。
16 同月二五日には、夕方に五〇〇ミリリットルの胆汁様嘔吐があった。
17 同月二六日、朝から嘔吐が続き、発熱もあった。腸閉塞が疑われたためレントゲン検査を行った結果、腸のガス像が著明であり、浅井は、腸閉塞と診断した。イレウス管を挿入したところ、約六〇〇ミリリットルの排液があったので絶食を指示し、一日二五〇〇ミリリットルのペースで輸液を行った。同日、浅井は家族に対し、「小腸まで癌が巻き込まれている。癌の発育速度は二〇歳代の癌の発育速度と同じで、腸閉塞の手術をしても、傷が治るころには癌が更に悪化している可能性が高い。あと一か月ももたないかもしれない」旨説明した。夜になってチアノーゼが出現したため、酸素投与を開始する等したが、意識状態が低下し、血圧測定不能となった。
18 同月二七日未明に多量の嘔吐があり、心停止状態となった。心臓マッサージ等の治療を行ったが、午前二時に死亡が確認された。
二 サルモネラ菌感染直前におけるDの病状について
1 原告は、本件手術当時、Dの癌の進行具合はステージIII で、本件手術の成功により、少なくとも術後三年間は通常の日常生活が可能な程度であり、右状況はサルモネラ菌感染直前である七月一〇日当時においても同様であった旨主張しているので、この点についてまず検討する。
2 証拠(甲一、証人浅井)によれば、本件手術時における浅井の臨床的な診断は、ステージIIIb であったと認められ、医学文献(乙五)には、下部直腸癌全患者における五年生存率が平均六一・六パーセントとの記載もある。他方、病理組織学的検査によるDの病期は、前記認定のとおりいわゆるステージIVの低分化腺癌であり、別の医学文献(乙一五)によれば、大腸癌のほとんどは高分化腺癌か中分化腺癌であり、Dの病態である低分化腺癌はまれであること、ステージIVの低分化腺癌の一年生存率は二〇パーセント以下であり、三年以内に全員死亡していること、五八・六パーセントの患者が一年以内に再発死亡したとの報告がなされていることが認められ、さらに別の医学文献(乙一四)によれば、Dと同様、二一六番リンパ節に癌が転移した例においては、腹膜播種及び手術根治度C(癌組織が明らかに残った場合をいう。乙一)が有意に高率であり、手術的に根治することが困難な症例であるとの報告がなされていることが認められる。右事実によれば、下部直腸癌の全患者における平均生存率から、直ちにDの当時の病状を推認することはできない。
3 かえって、七月三日にCEA値が三五に上昇しており、同月一〇日の超音波検査の結果、右側水腎症及び膵頭側のリンパ節が種大していたことが認められたことは前記認定のとおりであり、右事実を前提にすれば、同日時点において、本件手術後二月も経過しないうちにDの癌が再発していたと認めることができ、浅井医師の同月一五日における癌再発との記載及び同月二四日の腹部超音波検査の結果、両側に中等度の水腎症、上腹部中心に中等度の腹水の発生が認められた(甲一)ことも、右認定に沿うものである。
4 以上の諸事実、及び右手術後早期の直腸癌再発は病理組織的検査とも矛盾しないとの高見医師の回答書(甲一六の2)及び低分化型は生物学的悪性度が高いことを前提にすると、前記認定にかかるサルモネラ菌に感染する前である同年七月一〇日時点において、Dの癌はすでに再発しており、その病状は、主治医である浅井医師としても、もはや癌に対する積極的措置は取り得ない程のきわめて悪化した状態であり、多少無理をしてでもDを身辺整理のため帰宅させるべく、IVHを外す程度の措置しかとりようがなかったことが認められる。
以上の事実を前提に、各争点について具体的に検討する。
三 サルモネラ菌をDに感染させたことについて(争点1)
被告病院においてサルモネラ菌を原因とする集団食中毒があり、Dの便からもサルモネラ菌が検出されたことは前記のとおり争いがない。右集団食中毒の発生の事実自体から被告病院の何らかの衛生管理義務の違反が推認できるし、住之江保健所長作成の食中毒事件詳報(甲四)によれば、被告病院の平成八年七月一三日の昼食である茄子のごま和え及びツナサラダ並びに調理従事者検便からサルモネラ菌が検出されたこと、汚染原因としては食材の汚染、調理場内のネズミ、昆虫類の生息可能性が推定されており、不可抗力的な原因については想定していなかったことが認められるのであるから、右事実によれば、Dに対してサルモネラ菌を感染させた点は、被告病院の債務不履行というべきである。被告は、食中毒を発生させたのは遺憾であるが、被告病院としては、食中毒予防のため、できる限りの措置を講じてきたから、被告に衛生管理義務違反はないと主張し、これに沿う証拠(乙一六、二四)を提出するが、右証拠によっても、右認定を覆すには足りない。
四 被告病院においてサルモネラ菌感染の対応が遅れたかについて(争点2)
1 本件集団感染にかかる食中毒がサルモネラ菌によるものであることが判明したのは、Dについてサルモネラ菌感染が疑われた同月一六日の前日である同月一五日であるところ(乙一〇)、同月一四日当時、下痢、発熱症状がみられたのは本館四階病棟(内科)、同館三階病棟(産婦人科)及び北館病棟(整形外科)であったというのであり、Dが入院していた西館で食中毒症状を呈した患者が出たのは、浅井がDについてサルモネラ菌中毒を疑った同月一六日になってからであったことは前記認定のとおりである。
2 右事情によれば、同月一六日以前の段階で、本館及び北館の患者についてはともかくとしても、明らかな食中毒症状を呈していた患者がいなかったDを含む西館の患者全員に対して、直ちにサルモネラ菌集団感染の事実を開示し、直ちに検査を実施すべき注意義務があったとまでは認められない。また、西館にも患者が出始めた同月一六日には、Dに対しても検査及び治療が行われているのであるから、被告病院の措置が遅れたとまでは認められない。したがって、この点についての原告らの主張は、いずれも理由がない。
五 浅井医師のサルモネラ菌感染診断の遅れについて(争点3)
前記のとおり、被告病院が、同病院全体についてサルモネラ菌の集団感染が発生したことを認識したのは早くとも同月一五日であり、それ以前に浅井医師に対し、集団食中毒の発生及び対処について指示がなされたことはなかった(証人浅井)。また、直腸癌手術の低位前方切除術の術後障害として、頻回の排便と便秘を繰り返すという排便機能障害が一般にみられるところであり、Dについてもサルモネラ菌感染前から右術後障害と考えられる所見が見られていたこと(乙二三、証人浅井)にも照らすと、同月一六日以前において、浅井がDのサルモネラ菌感染の疑いを持つべきであったとはいえない。したがって、この点についての原告らの主張は、いずれも理由がない。
六 被告浅井がIVHを抜去した点について(争点4)
証拠(甲一)によれば、七月一五日当時、Dの全身状態は客観的には癌の再発及びサルモネラ菌の感染による発熱・下痢の症状を呈していたこと、浅井は、同日Dの右足に浮腫が出現していたと診断していたことがそれぞれ認められ、翌日である同月一六日にはDにサルモネラ菌中毒症状が明確に出現していたことは前記認定のとおりである。これらの事実に加え、大腸癌を中心とした消化器外科の専門家である高見医師は、同日IVHを抜去したこと自体は不適切ではないが、同日以降、末梢ルートからの水分補給が必要だったのではないかとの意見を述べている(甲一六の2、乙三一)ことに照らすと、少なくとも同月一九日に至るまで輸液を行わなかったことは、適切な診療ではなかったというべきである。被告は右期間中に点滴も勧めたが、D本人の希望でそのまま経過を観察した旨主張し、浅井の陳述書(乙二三)には、Dが点滴をいやがったとの記載があるが、証拠上同日に至るまで輸液の必要性についてDに説明した形跡は認められないから、右主張は採用できない。
七 因果関係について(争点4)
高見医師の意見(甲一六の2、乙三一)によれば、癌の再発による癌性腹膜炎の状態にある患者は、全身衰弱の甚だしい状態であることが認められるところ、一般に闘病中の全身衰弱状態の患者がサルモネラ菌に感染して発熱や下痢の症状を現実に呈しており、更に通常期待される栄養供給がなされなかった前記認定にかかる事実を前提にすると、右過失行為により健康人に比べて大きなダメージが加えられ、予後に悪影響を与えたであろうことは経験則に照らしても容易に推認できるし、高見医師の意見も基本的にこれに沿ったものである。したがって、本件においては、前記三及び六の過失がなければ、少なくとも現実にDが死亡した七月二七日の時点において、同人がなお生存していた高度の蓋然性があるという意味において、右各過失とDの死との間には因果関係があるというべきである。この点、被告はサルモネラ菌感染は短期間で治癒しているし、水分補給中止後においても脱水の所見はないと主張し、高見医師の意見を援用するけれども、右意見書の趣旨は前記認定のとおり、いずれの過失もDの予後に悪影響を与えたことは否定できないとするものであるから、右認定を左右するものではない。
八 損害額について(争点5)
1 逸失利益について
被告の各過失行為前である平成八年七月一〇日時点において、Dは既に直腸癌を再発したいわゆる末期状態にあったことは前記認定のとおりである。また、証拠(乙二三、証人浅井)によれば、一時退院及びこれを前提としたIVH抜去も、迫り来る死に対する身辺整理の機会を設ける趣旨であり、Dの社会復帰を前提にしたものではないことが認められる。右具体的状況を前提にすると、Dについて逸失利益は認められないといわざるを得ない。
2 慰謝料について
入院患者にとって、入院中の衛生管理については全面的に病院に依存せざるを得ない状況であるところ、本件において、被告病院がDを含む多数の患者にサルモネラ菌を感染させた点については、およそ診療契約に基づく基本的な義務に違反したものであるといわなければならない。現実にも、Dは本来の合併症に加え、頻回の下痢、発熱等による苦痛を被ったうえ、死期が多少なりとも早まったのである。また、Dが苦痛を伴う本件手術を行った動機も、幼い子供らのため、少しでも長く生きたいからというものであったことが認められるところ(原告A本人)、D本人の不満に十分に答えることなく、同人の言うがままにIVHの再開をせず、結果的に多少なりとも衰弱を早めているのであって、これらの点に照らせば、被告病院及び担当医師がDに与えた苦痛は決して小さいものではない。他方、前記認定のとおり、当時Dには癌が再発しており、客観的には死期が迫っていたことが明らかであり、原告Aを通じて癌再発が告知されていたこと、サルモネラ菌感染に対しては一応適切な治療が行われ、程なく陰性になっていることの各事情もあり、損害額算定に当たっては、これらの事情を無視することはできないのであって、これらの事情及びDの急激な症状悪化は癌再発を等閑視して論じることはできないとの高見意見(甲一五の2、乙三一)を併せて勘案すると、右苦痛を慰謝するためには、三〇〇万円をもって相当と認める。
第四結論
よって、原告らの本訴請求は、Dの被告に対する債務不履行(サルモネラ菌感染、IVH抜去継続)に基づく慰謝料として原告Aについては一五〇万円、原告B及び原告Cについては各七五万円並びにこれらに対する訴状送達の翌日であることが記録上明らかな平成九年五月二七日から支払済みまで民法所定の年五分の遅延損害金の各支払を求める限度で理由があり、その余は理由がないから、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 林圭介 裁判官 森純子 裁判官 高原知明)